お台場が、砲台を設置するために作られて場所であることは、いろいろなクイズ番組で問題としてて出題されているので知っている方も多いでしょうが、もともと海の上に設置されてた人工島であるお台場に、ではどうやって行っていたかというのを覚えている方は少ないのではないでしょうか。

答えは船で渡っていた

島に行くのだから船を使うというのは、なんとなく当たり前のように感じますが、お台場を代表する観光スポットレインボーブリッジのイメージのため、レインボーブリッジができる前も、別の古い橋が架かっていたようなイメージを持っている方はたくさんおられます。

 

その名の通り、砲台として人工的に作られた島 お台場

1853年(嘉永6年)、ペリーが黒船で来航して来た時に読まれた狂歌に「「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たつた四杯で夜も眠れず」というものがあります。
夜も眠れずというのは、今風に言えば、コーヒーを飲みすぎで眠れないのと黒船の来航で不安で夜も眠れないのをかけたものですが、それほどにまでにペリー来航は大きな出来事でした。

そこで幕府は江戸の防衛のため、品川沖に11基の砲台の建設を計画します。
実際には、7つしか完成しませんでしたが、これがお台場の呼び名のもととなったもの。

時代が明治となり、砲台は廃止されて土地が民間へと払い下げれれるのですが、昭和の時代の後半になるまで、お台場はまったく活用されることもなく、いくつかの台場は、新たな埋め立て地に吸収されて消えて行くこととなります。

1974年(昭和49年)、未開の地といってもいいお台場に船の科学館ができるのですが、それでもあまり開発は進まず、人口浜にあさりをまいて潮干狩りを楽しむというようなイベントも行われていましたが、実際には『東京の隠れ海水浴場』といったところ。
そのころのお台場への交通手段が芝浦からでる小型船(渡し船?)だけだったのです。

 

東京の秘境 お台場

この時代のお台場が『隠れ海水浴場』だったとつくづく思えるのは、この記事を書くためにネットで検索したところ、この渡し船の情報はほとんどなく、現在の豊洲側からバスでお台場に行っていたというニセ情報が、質問箱の回答として載っていたことです。
これが普通に信じられてしまうところが、お台場の歴史が、ある面、東京の暗黒史だったことを物語っているのかもしれません。

江東区の東雲方面からお台場へ行くバス路線が開通するのは、1990年台に入ってから。
現在でも数本の橋で江東区とつながっているだけのお台場地区ですが、その時代の橋は1本のみで、そんな場所に路線バスが走っているわけがありません。

実は、正確な日付は忘れてしまいましたが、1980年代に歩いてお台場へ行ってみようという無謀なチャレンジをしたことがあります。
東雲あたりから気楽に歩き始めたのですが、行けども行けども雑草が生え放題の空き地が続き、このたった1本の橋にたどり着くまでまでに、なんど心がくじけそうになったことか…

今、その場所に、巨大なショッピングセンターやタワーマンションが建ち並び、キャナリーゼなどという呼び名の新住民で賑わう街となっているのを考えると、隔世の感があります。

 

青島都知事の英断が、大きくお台場を変える

そんな東京の秘境『お台場』が、大きく変化するきっかけとなったのが、世界都市博覧会をこのお台場で開催しようという計画。

1993年、時の都知事鈴木俊一氏が計画を発表したのですが、この年は、後年バブル崩壊の年とされる年で、まさにはじけ行くバブルの最後の泡のような計画でした。

そのため、開催に際しては賛成反対の大激論となり、最終的に1995年(平成7年)、世界都市博覧会中止を公約とした青島幸男氏が都知事に当選して、この巨大な泡は破裂することとなります。

しかし、世界都市博覧会の開催に合わせて開発が進められていたお台場は、以降もレインボーブリッジの開通、フジテレビの移転、東京ビッグサイト(国際展示場)の移転と次々と施設が建設され、一種の観光地としての賑わいを見せ始め、東京の新たなデートスポットとして認知されてゆきます。

以降も、ドラマの舞台となった架空の警察署が本当にできてしまったり、築地から卸売市場が移転してきたりと、話題の尽きないお台場。

ちなみに、お台場の名称で昔から呼ばれていたのはフジテレビなどがある臨海副都心部分で、そのあたりは港区
現在開発が盛んな有明や青海などは江東区で、開発自体もタワーマンションが中心。
観光地としての港区側にしか行ったことのない方は、ぜひ一度このあたりへ行ってみるのをおススメします。

休日でも、意外とのんびりできますよ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です