キネマの天地もはるか昔

戦前から、キネマの街として栄えた蒲田。
戦後に大田区ができるときに「蒲田区にするか大森区にするか」と論争になったほどに、都内城南地区(品川区、目黒区、大田区、世田谷区)では指折りの歓楽街でした。

しかし、時代が流れ川崎が工業地帯として発展してからは、川崎球場に川崎競輪、風俗から飲み屋まで、あらゆるものが川崎にできたために、蒲田の街は「帰りに一杯」程度の歓楽街へと衰退して行きました。

そんな蒲田に、それまでとは全く違う新たな活気を注入したのは、企業でも公共団体でもない、いち教育機関。

それが日本工学院専門学校です。

この学校の発展が、昭和の歓楽街蒲田を、平成の学生街へと変えて行きました。

若い力が変えた蒲田の街

1947年(昭和22年)に、西蒲田で美術系の専門学校としてスタートした日本工学院(当時は創美学園)は、戦後から始まったテレビ放送という時代の波に乗り、その技術者の教育という分野で大きく発展を遂げました。

1976年(昭和51年)は、新たに導入された『専修学校制度』に基づいて日本工学院専門学校を開校。
1986年(昭和61年)には、八王子に東京工科大学を開校しさらなる飛躍を遂げますが、これにより蒲田の地は、大学と専門学校とが併設する学園都市の様相を呈することとなります。

実際、JR蒲田駅から日本工学院へと続く道は、『工学院通り商店会』という商店街になってはいますが、実質は、居酒屋ラーメン屋とでできた、まさに現代の学生街。

蒲田ラーメン街

現在、都内には朝まで飲める歓楽街がいくつかありますが、蒲田の街もそんな中の一つ。

しかし、戦前のキネマの天地と称された蒲田のころならばいざ知らず、高度経済成長の後にさびれてゆくだけだった蒲田の街が、こんな形で変わった行くとは誰が想像したでしょう。

新しい変化の兆し 羽田空港国際化

そんな蒲田の街が、今また更なる変化の時を迎えています。

それが、羽田空港の再国際化による国際化。

1976年(昭和51年)に成田空港ができてからは、近距離の国際線しか離発着せず、まるで国内線用空港のような扱いとなっていた羽田空港が、2010年に再度長距離の国際便を受け入れるようになりました。

これにより注目されたのが、羽田空港への鉄道路線。

バスを除くと、東京モノレール京浜急行との2つの鉄道ルートが存在した羽田空港への交通手段ですが、目的地へ直行するバスと違い、各駅で途中下車できる鉄道は、地元の観光誘致という点から大きく街が発展するチャンスでもあります。

現在の蒲田の街は昭和とは完全に逆転して、日本工学院のある西口が発展していますが、京急蒲田駅へと続く東口にとっては、海外の観光客誘致は街が大きく変わる機会であり、実際に、京急蒲田駅の周りは再開発で街の様相が日々変化しています。

キネマの天地から労働者の憩いの街、そして学生街へと変化していった蒲田が、今度はどんな街へと変身するのでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です